【師匠シリーズ】 先生 前編 2/3
それから三日くらい、僕らはひたすら川で泳ぎ回っていた。
とにかく暑かったからだ。
川は海よりも体が浮かなくて、しかも流れがあるので、岸に上がった時にドッと疲れる感じ。
その川には小さな橋が架かっていて、その上から飛び込むのが僕たち子どもの格好の度胸試しになっていた。
僕も泳ぐのは得意だったし、川底も深かったのでしばらく躊躇した後、見事に頭からドブーンとやってやった。
プシューと水を吹きながら、他のみんなと同じように水面に顔を出すと、橋の欄干の上にプロレスラー宜しくシゲちゃんが立っているのが見えた。
「見てろ」と言って、シゲちゃんはみんなの視線を集めながら宙を舞った。
歓声と光と水に溶けていく体温。
太陽の中に僕らの夏があった。
そうしているうちに、やがて僕が一人で遊ばなくてはならない日がやってきた。
シゲちゃん達6年生が、みんな2泊3日で林間学校に行くのだ。
僕も連れて行って欲しかったが、学校行事なのでどうしてもダメらしい。
リュックサックを背負って朝早くに家を出るシゲちゃんを見送って、今日からの三日間をどうしようかと考えた。
家は農家だったので、おじさんとおばさんとじいちゃんは、朝ご飯を食べたあと軽トラに乗って仕事に行ってしまう。
ばあちゃんがゴトゴトと家の仕事をする音を聞きながら、僕は持ってきていた宿題を久しぶりに開いた。
広い畳敷きの部屋で、大きな机の真ん中に頬杖をつく。
何ページか進むと、もう飽きる。
宿題なんて、夏休み最後の三日くらいでやるものと決まってる。
それまでに、やらなくてはならない他の事があるんじゃないのか?
鉛筆が、コロコロと転がる。
縁側の向こうの庭には太陽がさんさんと照っていて、こちらの部屋の中がやけに暗く感じる。
寝転がったり、宿題を進めたり、また休んだりを繰り返していて、ふと時計を見ると朝の九時。
まだ九時なのだ。
お昼ご飯まで三時間以上ある。
ダメだ。
どうにかなってしまう。
僕は、一人で行ける場所を考えた。
いつもみんなでは行かない場所がいいな。
図書館とか。
あれこれ考えていると、ふと頭の隅に鎮守の森の神社が浮かんだ。
そして、カンバツされていない木々の下の翳りの道。
その先に、まだ道は続いていた。
またムクムクとその先へ行ってみたい気持ちが、わき上がってきた。
あの森の中では萎えてしまったその気持ちが、もう一度強くなってくる。
一人でも行けるさ。
どうってことない。
そうだ。
午前中に、今すぐに行こう。
日の高いうちなら、そんなに恐くないはずだ。
思い立ったら、すぐに身体が動いた。
宿題のノートを畳んでから支度をする。
リュックサックを担いでいると、その気配を感じたのか、シゲちゃんの妹のヨッちゃんが、襖の隙間からじっとこちらを見ていた。
「どっか行くの?」
瞬間、僕はこの子も連れて行ったらどうかなと考えた。
でもすぐにそれを振り払う。
冒険に女は連れて行けない。
何が待っているか分からないのだから。
「郵便局に行くだけ」と言うと、「ふうん」とつまらなそうにどこかへ行ってしまった。
ようし。
邪魔者も追い払った。
僕は意気揚々と家を出る。
太陽の照りつける畦道を北へ北へと向かうと、こんもりとした山の緑がだんだんと近づいてくる。
昔、入山料を取っていたというころの名残で、ある木箱が朽ち果てている所が入り口。
峰を登らずに、山の麓に沿って道が通っている。
ザクザクと土を踏みしめて前へ前へ進むと、だんだんと木の陰で頭上が薄暗くなってくる。
念のために持ってきた方位磁針をリュックサックから取り出して、右手に持ったまま休まずに足を動かす。
時どき山鳩の声が響いて、バサバサと葉っぱが揺れる音がする。
それから蝉の声。
それも怖くなるほどの大合唱だ。
チラリと見上げると、葉の隙間からキラキラと光の筋が漏れている。
ずっと上を向いて音の洪水の中にいると、ここがどこなのか分からなくなってくる。
なんだか危険な感じ。
慌てて前を向いて歩きだす。
途中、山に登る横道がいくつかあったけれど、なんとか迷わずに鎮守の森の神社まで辿り着けた。
一応お参りしておくことにする。
気に囲まれた参道を進み、小さな鳥居をくぐる。
古ぼけた建物がひっそりと佇んでいるその前に立ち、お賽銭箱にチリンと百円玉を投げ込む。
やっぱり良い音だ。
神社の中には人の気配はない。
誰か通ってきて手入れをしたりしているのだろうか。
くるりと回れ右をして、元来た参道を辿る。
途中で、小さな池があるのに気付いて横道にそれた。
鳥居の横あたりだ。
水面ではアメンボがすいすいと泳いでいるけれど、水の中は濁っていてよく見えない。
雨が降らない間はきっと干上がるんだろうな、と思いながら顔を上げ、参道に戻る。
サクサクという土の音を聞きながら歩いていると、何か大事なものを忘れた気がして振り向いた。
そこには鳥居があるだけだったけれどそういえば帰りに鳥居をくぐっていないなと思い出す。
まあいいやと思って先へ行くと、だんだんと変な、ぐるぐるした感じが頭の隅にわいてきて、それがどんどん大きくなってきた。
なんだろう。
気分が悪い。
景色が妙に色あせて見える。
僕はキョロキョロと辺りを見回したい気持ちを抑えて、光と影が交互にやってくる参道を早足で抜けた。
どうしよう。
戻ろうか。
そう考えたけれど、また逃げ帰るのはシャクに触る。
どっかから勇気がわいてこないかと待っていると、お賽銭箱に百円玉を入れたチリンという音が耳に蘇ってきた。
ようし、百円だからな。
前は十円。
今日は百円だ。
そんな感じで無理やり勇気を引っ張り出して、帰り道の反対方向へ足を向けた。
ザンザンと土を踏んで歩く。
蝉の声は相変わらずやかましくて、辺りは薄暗くて、どこまでも同じように曲がりくねった道が続いている。
道の先には誰の足跡も無い。
時々振り返るけれど、地面には僕の足跡が付いているだけ。
カーブのたびに、誰か僕じゃない人の姿が木の陰に隠れたような気がするけれど、きっと錯覚なのだろう。
だんだん道は狭くなり、倒れた気がそのまま放っておかれて、キノコなんか生えちゃっているのを見ると、やっぱりこの先は、ただの行き止まりじゃないかと考えてしまう。
リュックサックに詰めた保存食料、まあそれはクッキーやリンゴだったのだけれど、そういうものが役に立つような事が無いように祈りながら、方位磁針を見たり、振り返ったり、チリンという音を思い出したりして、僕は歩き続けた。
やがて一際暗い木のアーチが、まるでトンネルの幽霊のように現れ、僕は少しだけ足踏みをしてから、その奥に吸い込まれて行く。
なんという名前の木だろう。
分厚い葉っぱが頭の上を覆いつくして、光がほとんど漏れてこない。
時々暗がりから白い手がスイスイと揺れているのが見えた気がして、身体が硬くなる。
足元を見ると、僕の足は確かに今までと同じ土を踏んでいて、その上に立っている限りは大丈夫だと自分に言い聞かせながら、ほとんど走るようなスピードでそのトンネルを抜けた。
ぱあっ、と目の前が明るくなる。
白い雲がぽつんと空に浮かんでいる。
その下には緑の眩しい畦道が伸びている。
畑がある。
山の上にはいくつか家が見える。
ツバメが飛んでいる。
カエルが鳴いている。
僕は、はぁっ、と息を吐きだして、それから吸い込む。
なんだ、別の集落に通じているじゃないか。
シゲちゃんめ。
嘘こきやがって。
そう思って、自然に軽くなる足を振り上げ畦道を進む。
でもよく考えると、途中の森の中に何もなかったのは確かだ。
ううむ。
嘘つきだと言ってやっても、へこませられるか自信が無いな。
ふと思いついて振り返ると、さっき抜けた森の入り口がぽっかりと暗い口を開けている。
帰る時にまたあそこを通るのかと思うと、少し嫌な気分になったけれど、ひょっとすると他に道があるかも知れないと考えて、とりあえず誰かこのあたりの人を探す事にした。
ヒマワリが咲いている道をキョロキョロしながら歩いていると、そこは山に囲まれた案外小さな集落だと気づく。
段々畑が山の斜面に並んでいて、埋もれるように家がポツンポツンとある。
道には太陽が降り注ぐばかりで、他に歩く人の影も見えない。
僕は勾配のなだらかな坂道を登って、大きな屋根が見えている場所へ向かった。
汗を拭いながら登りきると、そこには広い庭と木造二階建ての古そうな家があった。
とても大きい。
庭も、庭というより広場みたいな感じ。
隅っこの方に鉄棒と砂場が見える。
あれ?
なんだか学校みたいだなと思ったけれど、学校にしては小さすぎる。
少なくとも僕の知っているものよりは。
その時、二階の窓に誰かいるのに気が付いた。
風が吹いて僕の髪が揺れるのと同時に、その人の髪も揺れた。
黒くて長い髪。
白い服。
女の人だ。
窓際に頬杖をついて、ぼうっと広場の隅を見ている。
なんだか胸がドキドキした。
僕は広場の真ん中に突っ立って、その人を見上げていた。
でもいつまで経っても、その人はこっちに気づく気配はなかった。
僕は方位磁針をポケットにしまってから、「あのぅ」と言った。
あんまり声が小さかったので、すぐに「すみません」と言い直した。
それでもその人は気づいてくれず、ぼうっとしたまま外を見ていた。
なんだか恥ずかしくなってきて帰りたくなったけれど、もう一回声を張り上げた。
「すみませぇん」
次の瞬間、何かが弾けたような感じがした。
その人がこっちを見た。
わ、どうしよう。
確かに、パチンという感じに世界が弾けたのだ。
その人は最初驚いたような顔をして、次に、ぼうっとしていた時間が去ったのを惜しむような悲しい顔をして、それから最後にニッコリと笑うと、「こんにちは」と言った。
僕にだ。
僕に。
「どうしたの?」
その人は窓から少し乗り出して、右手を口元に寄せる。
「ここはどこですか?」と、僕はつまらない事を聞いてしまった。
何かもっと気の利いた事が言えたらよかったのに。
「ここはね、学校なの」
「え?」
「がっ・こ・う。 ね、上がってこない? すぐそこが玄関。 下駄箱にスリッパがあるから、履いてらっしゃい」
「は、はい」と、僕は慌ててその建物の玄関に向かった。
開けっ放しの扉の向こうに、埃っぽい下駄箱と板敷きの廊下があった。
電気なんかついていなかったけれど、ガラス窓から明るい陽射しが差し込んできて、中の様子がよく見えた。
左右に伸びる廊下には、『一、二年生』や『三、四年生』と書いてある白い板が壁から出っ張っていて、その向こうは小さな教室があるみたいだった。
玄関の向かいにはすぐに階段があって、僕は恐る恐る足を踏み出す。
何しろ片足を乗っけただけで、ギシギシいう古ぼけた木の階段なのだ。
狭い踊り場の壁には、画鋲の跡と絵か何かの切れ端がくっついていた。
二階に着くと、一階と同じような板敷きの廊下が伸びていて、その左手側の教室から、さっきの女の人が手を振っていた。
「いらっしゃい」
僕はなんて返事したらいいか困った挙句、「どうも」と言った。
その人はくすりと笑うと、「ここはね、昔は小学校だったの。今はもうやってないけど。子供が減ったのね」と、僕を教室の中に誘った。
白い壁には『六年生』と書いてあった。
小さな教室には机が五つあった。
それが最後の卒業生の数だったかも知れない。
僕はたくさんの机がぎゅうぎゅうに詰まっている自分の学校の教室を思い浮かべて、なんだか目の前のそれがオモチャのように見えて仕方がなかった。
(つづく)